夫とのなれそめの話

6月に約12年ぶりに母に連絡を取ったんですけども、やっぱり返事はきませんでした。

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それから2週間ほどしてから、案の定妹の誕生日に合わせるようにしれっと荷物を送ってきました。荷物の中身はいつも通り、お菓子の詰め合わせと洋服が1~2着、そして近況の手紙。私は手紙の返事はしない。メールで謝辞も送らない。いつも通りの一方通行な小包み。私の好みドンピシャに合わせたお菓子を入れてくるのも、またむかつく。

そんなことはさておき、今年の7月24日をもって結婚1年目を迎えました。入籍から1年経ちましたが、私たちの生活は特別な変化は起きず、ある意味いつも通りの日々を送っています。

私と夫との出会いは小学校4年生、夫が転校生として私のクラスに転入してきたところからスタートします。色素が少し薄めで柔らかそうな地毛に、眼鏡をかけた知的な印象の男の子で、初見でわかる「今まで身近にいなかったタイプ」の男の子でした。

ですがなにしろ閉鎖的な田舎の小学生、転勤でやってきた先生にも警戒して人見知りをかます子どもだったので夫に対しても最初は「なんだこの猿顔」と思い警戒していました。

ここまで書いて仲良くなったきっかけを必死に思い出そうとしたのですが、いまいち「これで仲良くなった!」というきっかけはなかったように感じます。ただ序盤から席が隣か前後のどちらかになることが非常に多く、話す機会が他の子より多かったです。本当に、席替えするときは完全くじ引きだったのに大抵隣か前後。離れることがほとんどなかった。なんだったんだろうね。

あとは『どっちの料理ショー』や『ザ!鉄腕!DASH!!』など、視聴しているテレビ番組が大体一緒だったので昨日の夜見たテレビ番組の話をよくしていたのはなんとなく覚えています。私の幼馴染の男子と夫が親友になったのも重なって、話す機会はますます増えて、知ってることも増えました。車とバイクが好きなこと、歳が少し離れた弟がいること、長ネギが嫌いなこと、両親が共働りで料理に興味があること、犬夜叉が好きでよく読んでること。知っていることが増えていくうちに、自然に好きになっていきました。

夫も大体同じだったようで「特別優しくされたとかそんなこと全然なかったのに、気がついたら大好きになってたんだもんな~」と最近しみじみ言っていましたが、当時まだ照れが出る男子小学生。はっきりと好意を伝えられるということはありませんでしたがつかず離れずみたいな感じで、周囲も暗黙の了解だったのか小学校の卒業記念文集に載っているアンケートランキングでは付き合いそうな人ランキングで見事クラス1位を取りました。そして夫がクラスのかっこいい人ランキングで1位を取っててめちゃくちゃビビりました。(好きなのと容姿の整いっぷりは完全に別物やろ~と思っていたので普通に顔立ちがきれいな男子に投票してた)(そして夫に投票してないと知った友人は「嘘でしょ!!!?????」と大層びっくりしていた)

そのまま中学校に上がったときからじわじわ事態が変わっていきます。

まずは中学1年生の夏から私から告白して付き合いはじめました。これには私の友人の女の子の猛烈な圧力(プレッシャー)がありまして、「告白しな!!!!」「告白しなかったら絶交する!!!!!」とことあるごとにぶっこんでくる友人だったのですが私はそれを真に受けちゃったんですよね。まんまと友人の策略(?)通り告白して夫からオッケーを貰いました。受難はここからです。

中学に入ってからはクラスは離れたものの部活が一緒だったので、付き合う前からくっついてる頻度は高かったんですけど付き合いはじめてからは本当に周りからクレームが来て部活の顧問から個別で呼び出されて注意を受ける日々を過ごします。顧問の先生本当にごめんなさい。部活で一緒だった同級生も本当にごめんなさい。

言い訳ですが部活も夫が先に入っていたので『自分が入ると「夫目当てで入った」とか周りに言われそうだしな…帰宅部でいいかな』って思っていたのに担任が部活の顧問だったので家庭訪問のとき父親の目の前で「今うちマネージャーいないんだよね?やんない?」とスカウトされてしまったがために入部したようなもんです...。いや今思えば部活動やっててよかったんだけどね…。当時やっぱり「夫目当てで入った」って言われたしね…。

今思えば完全に感情を理性でコントロールできてなかっただけなんですど、恋人としてのステップは手を繋ぐしかしてませんでした。ピュアだな。土日も部活で忙しかったのでデートとかも全然なかったのですが、それでも部活で一緒にいれたのでハッピーでした。

ですが2年生になってから、なんとなく、はっきりした理由もなく倦怠期を迎えます。

これについてはお互いなんだったんだろうねって話してますが、当時私の方は家庭内がごたごたしている最中で、容姿にも変化があり自分に自信が持てない時期でしたし夫も夫で視野がどんどん広がる時期でもありました。お互いなんとなく『恋愛している場合ではない』モードに入っていたのかな、と推測しています。その後自然消滅かな?と思っていたところで前述の友人が「あんたたち別れたの!!??別れてないならはっきりさせな!!???」と割って入ったことによって、きちんと面と向かってお別れしましょう、ということになりました。

その後は同じ部活動だったので、多少の気まずさはありつつもお互いあまり関わりすぎず、関わってもちゃんと選手とマネージャーとしてドライな関係になれたので『ああ、やっと部活における正しい関係になれたんだな』と淋しさを抱えながら考えてました。別れたからと言って部活を辞めて他の同級生や後輩と気まずくなるのが嫌だったので『別れました。でも部活は引退までちゃんと続けますのでよろしくお願いします』と顧問に報告もした。本当に一番迷惑をかけた先生だと思う。ごめんなさいを何回言っても足りない。嫌だよこんな中学生の案件。

その後はなんとか普通に部活をこなし、引退して、高校はお互い違うところへ行きました。前述の幼馴染の男子が私と同じ高校へ進学したので、そんな気はなかったと思いますがたまに『こないだ○○(夫)と会ってよー!元気そうだったぞ!』と近況を教えてくれました。高校に入ってからは年に一度くらいの頻度で部活のメンバーで集まっていましたが、そこに夫がいても必要以上には話しませんでした。本当に『元気?』『うん、元気』くらい。この頃まだ自分の容姿や身だしなみを気にしている時期で自信がなかったのもある。結局高校では特別好意を持つ人は現れず、『もう過去の恋愛に捉われても仕方ない。好きな人も出来なさそうだし、まずは自分のために生きよう。一人で生きていける力を身に付けよう』と決意し、アルバイトと生徒会活動と部活動に力を注ぐ高校生になりました。

そして高校を卒業したら私は地元を離れて大学へ進学し、夫は地元の専門学校へ進学しました。高校卒業時は夫の進路もよく知らず、というかすっかり蚊帳の外っていう感じでした。

大学に入って初めて親元を離れてからは毎日が楽しくて仕方ありませんでした。ダイエットもできるし夜更かしも昼過ぎまで寝ててもいい!!友人にファッションのことも教わりメイクも少しずつするようにして、スキンケアも大切にするようになりました。女として目覚めた感じ。

結果的には大学に入ってからニキビもかなり減ったしニキビ跡はメイクで隠せるようになったし体重も元に戻った。服装にも気を遣うようになりファッションの良し悪しも少しはわかるようになったのでだいぶ自分に自信を持てるようになっていました。

そして成人式。勝手に父親が買った桃色の振袖を着てちょこちょこ歩いたところに夫はいました。最後の会ったのが高校2年生くらいだったので、約3年ぶりの再会でした。そこでの会話も他愛のないものでしたが、とにかく自然に話せていたのが印象的で、成人式が終わってから幼馴染の男子から『遊ぼーぜ!』と連絡をもらい、幼馴染と部活で一緒だった同級生、夫、私の4人でゲーセンで遊んだときも、とにかく会話が自然。これまでの気まずさはどこへ?と疑問に思うくらい自然でした。『やっと普通の友達になれたんだ』と、肩の荷が下りたような気持ちになったのを覚えている。

あとこのとき『やっぱり夫の顔が私の好みのベースなんだな』と実感した。初対面猿顔って思ってたのにね。

このときやっと連絡先を交換しますが、特に連絡することはなくお互い学業に勤しんでる…と思っていたら夫が専門学校を中退していたことを父親経由で知ります。それでも特に連絡を取ろうとは思わず、『そうかーフリーターになったのか』ぐらいにしか思ってませんでした。

事態が急変したのは年末、私は帰省中に中学時代の友人2人とお買い物に出ていました。友人の1人は当時もう既に結婚していて、子どもが2人いました。上の子がぐずっているのをお母さんである友人が対応している間に、下の子を私と友人の2人で見ていました。私が当時まだ赤子だった下の子を抱っこしているところを友人が写真に撮り、なんかその写真が良い感じだったので、『産みましたって何人かに送ろうぜ!』と悪ふざけするに至りました。若さが生み出したブラックジョーク。最低です。

この送ったブラックジョークメークを受信した複数名のうち、夫もいたのです。

反応は人によってまちまちでしたが、夫はとても驚いて、とても真摯に、祝福のお返事をメールでしてくれたのです。

当然焦る我々。やべえ急いで訂正せなと慌てて真実をメールにしたため、また返信。夫は特別怒る訳でもなく、そっかーびっくりしたよというリアクションでした。

そこで、『帰ってきてるなら一緒に出掛けませんか?』とお誘いがきました。これまで1度も一緒に出掛けようなんて誘ったことはなかった夫の急激な誘いに戸惑いつつ、承諾して一緒にドライブへ行く約束をしました。

実家に帰ってから父親にその話をすると『万が一年末に事故ったら嫌だから年始にして。あとその日は帰ってこなくていいから』と、父親だけはその気でした。ですがこちとら恋愛からはそれなりに長い期間遠ざかってしまっていたので、『向こうはそんな気ないよ』とか言ってました。

気まずくなったらどうしようとか不安もあったのですが当日は至って普通に楽しくドライブして、ご飯を食べて、買い物をして帰りました。丁寧に家まで送ってくれて、帰宅したのが19時過ぎ。気まずくなることもなく楽しく過ごせて良かったなーと思いつつただいまーと言って帰宅するとパンイチで晩酌している父親に『なんで帰ってきたの!!!!!!!?????』と言われ、『なんでと言われても、送ってもらったから…』と返せば『手は繋がなかったの!!!!!?????告白は!!!!!?????チューは!!!!!!??????』と返され、『いや、普通に買い物してご飯食べただけだし』と返せば『あのヘタレが!!!!!!!』と言われる始末。可哀そうだな夫。

でも私自身も『彼にそんな気はない』と言い聞かせていただけなので、もしも告白されたらどうするかなというのを、そのとき初めて考えました。う~んでも告白もされてないのに考えるのもおこがましいかとか考えていたところで夫が勇気を振り絞って電話をしてくれて、「中学生のときは何もしてあげられなくてごめん。もう1度チャンスをください」と告白をされ、私は反射神経で「よろしくお願いします」と返事をしました。

それから5年ほどお付き合いを続け、なんの記念日でもない普通の日に入籍をしました。

お互い初めてお付き合いをした人で、結局中学で別れてからもお互い恋人ができなかったし特別好きな人もできなかったので、お互い全部最初の人と結婚することになりました。少女漫画かよ。

そして入籍から1年が経ち、やっとお互いのスケジュールを合わせて結婚写真を撮ることができました。私自身は和装がとても気に入っていたのですが、ドレス姿を見た夫がとても感動してくれたので、ああやってよかったなと思えました。

優しい夫、これからもよろしく。

結果的にキューピットになってくれた友人のお子さんに感謝を込めて。

近所のおじいちゃんがほぼ家族な話

家族ではないけれど家族のように親しく、なんなら家族同然の付き合いがある人、いませんか?うちの実家には2人ほどいます。

私の実家の構成人員は父と妹と私、そして『ねえちゃん』と『おじいちゃん』です。

まず先に『ねえちゃん』の説明をさせてください。

前回の記事でもちらっと触れましたが、うちの実家は自営業をやっています。

 

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 ねえちゃんは、高卒でうちに就職した、勤続十うん年のベテラン社員さんです。小柄で細身ですが根性のある働き者、でも理性的で合理的な考え方ができる人です。あと美人です。色白で二重ぱっちりで睫毛が長い。純日本人だけどハーフ顔。

母が出て行き父子家庭になってすぐの頃、授業参観に父が来るのがなんとなく恥ずかしく感じて、ねえちゃんに来てほしいと言ったら本当に来てくれたんですよ。しかも1人で。クラスメイトから「あの綺麗な人だれのお母さん?おねえさん?」と噂をされて「うちの家で働いてる人~綺麗でしょ~」と誇らしげになりルンルンで帰宅したのを覚えています。

私と妹が母の元で夏休みを過ごしている間、泣き言をもらす父に「あの子たちは絶対帰ってくる」と励まし続けたのもねえちゃんでした。

ねえちゃんは若くして結婚し出産しましたが当時の旦那さんがモラハラDV夫だったため離婚、今はねえちゃん自身のお父さんお母さんと弟、そして専門学校に通う娘さんと暮らしています。

そして勘の良い人はお気づきと思います。

ねえちゃんは父の恋人です。個人的には公私共のパートナー、の方がしっくりくる。

父曰く私が高校卒業のタイミングで付き合いはじめとのこと。そうかいそうかい。

私にとっても妹にとっても、ねえちゃんは本当に姉のような母のような存在で、父に強く意見を出せるところも含めてめっちゃすきだしめっちゃ大切な存在です。私の性格や生活に対するあり方もねえちゃんの影響を若干受けていて、父からは「親子でもないのに似てくる…」とこぼされます。

私も学生の頃は『ねえちゃんと付き合ってる』アピールをしてくる父に正直殺意が沸いたし、今でも「もっといい男がいるだろうに…」「そんなんだとねえちゃんに捨てられるよ」「むしろ捨てられればいいのに」「いつでも見捨てていいからねってねえちゃんに言いたい」なんて言ってます。いやでも本当にうちの父でいいのかいねえちゃん?ねえちゃんは本当に美人で働き者で気が利いて優しいだけじゃなく厳しいところもちゃんとある人だから、もっといい人いるんじゃないかな?と心配になります。

とは言え私も新しいお母さんはねえちゃん以外に考えられないので、最近は「ねえ私も妹も就職してねえちゃんの娘ちゃんもそろそろ就職だけどいつ結婚するの?というか結婚できるの?わたしねえちゃんのこと母さんって呼ぶ日こないの?」とせっついています。嫌味です。

妹もねえちゃんのことは大好きなのですが、父の『ねえちゃんと付き合ってる』アピールを受けると全力で威嚇している猫のような顔をして父を拒絶します。きっと妹は父の『ねえちゃんと付き合ってる』アピールから「ねえちゃんを性的に扱う要素」を受け取ってしまうんだなぁ、と勝手に推測しています。『おねえちゃんを汚すな!!』ってたまに怒ってるし。

 

そして2人目の『おじいちゃん』。この方とのエピソードは妹が主役です。

元々このおじいちゃん、最初は本当に近所に住むおじいちゃんでした。

前回の記事にも書きましたが、妹は軽度の知的障がいと吃音を持ち、特に中学校はそれなりに人間関係に苦労していました。部活動も父の強い勧めで柔道部に入りましたが、生来争いごとや競争、上下関係を決めることが嫌いで平和主義者の妹、柔道部は苦痛でしかなかったようです。しかも妹が在籍していた柔道部は生徒より保護者の方がアツい部活動で、試合のときも野次まがい罵声まがいの声援が飛び交う飛び交う。妹は試合にも出ていましたがすぐに相手に技をかけられにいくスタイルで、公式戦でも練習でも白星をあげたことはありません。おかげで受け身はめっちゃうまくなってた。

まあそんなこんなでそれなりに学校生活で苦しんでめそめそ泣きながら帰宅する途中の妹をお家に招いてくれたのが、おじいちゃんの奥様である『おばあちゃん』でした。

おばあちゃんはお庭のお花を手入れするのが趣味で、いつもお外にいる人でした。『外で出会った人には挨拶を』を徹底指導していた中学校に通っていたので、ほぼ毎朝毎夕妹は挨拶をしていました。(私は部活動が朝早く、終わるのが遅かった勢でした)

そこで遺憾なく発揮される妹のにこにこビ――――――――ム!!妖怪じじばば殺し!!!

おばあちゃんすぐ妹にメロメロになりました。

妹も当時、弱音やなんとなく家族に話したくない話をおしゃべりできる身近な友人がおらず、そこから妹とおばあちゃんとの本格的な交流が始まります。

妹はほぼ毎日自宅に帰宅する前におばあちゃんの家に寄り、夕飯の時間ぎりぎりまでおばあちゃんとおしゃべりをしてうちに帰る、というスタイルでした。おばあちゃんの夫であるおじいちゃんもすぐ仲間入りし、気付いたら近所の老夫婦のお家にうちの妹が入り浸っている!?という構図に。父も申し訳ないと思ったのか度々お土産の干物などをお礼がてらお裾分けしていました。

おばあちゃんもおじいちゃんもとてもいい人で、「私たちがいつも一緒にいてもらってるのよ。妹ちゃんとおしゃべりするとね、いつも笑顔でね、私たちも明るい気持ちになるの。本当に素直でいい子で…」という話をしてもらうたび、「そんな風に思ってくれるあなたたちが素敵なんだよ…なんだこのできた人たちは」と恐縮したものです。

そんな生活が2年半ほど続いたある日、おばあちゃんが突然亡くなります。眠っている間の脳梗塞でした。本当に突然で、妹はいつも近くにいる人が突然いなくなってしまう経験を、そのとき初めてしたのではないかと思います。静かに、落ち込んでいましたが、それ以上に憔悴しているおじいちゃんに、そっと寄り添いに行きました。

私は、正直なところ私自身がとてもお世話になった、という訳でもないし、他人であるおじいちゃんに寄り添うものでもないなと思った。でも妹は寄り添った。違う人間だな、とぼんやり思いました。

 

その後、妹だけでなく父も私もまとめておじいちゃんと交流を持つようになります。急に独り身になったおじいちゃんを気遣い、うちに夕飯を招待したりおじいちゃんのお家に招待されたりするようになりました。妹はおじいちゃんのお家にお泊りするようにもなり、高校に入る頃にはすでに入り浸っていた…。

おじいちゃんもさみしかったのか、妹を歓迎し、気付いたら妹の高校入学祝いにパソコンやタブレットをプレゼントしてくれたり、めっちゃ外食連れてってくれたり、海外旅行を一緒に行ったり、旅行がてら本州に住んでいる息子さん一家に会わせてご自分のお孫さんと妹を一緒に遊ばせたり、ゲームやらお洋服やら靴やら買い与えてくれるようになっていました。

 

…ここまで書いて「あれ?この関係って正常なの?」と思いはじめましたがもうこの問いには「関係性に正常か正常じゃないかで決めるのやめよう」と脳内で自己完結をさせます。もうこのループは飽きるほど考えた。正直そんなにうちの妹にお金落としてなんになるの、とは今でも若干思う。

 

ですが当のおじいちゃんは「好きでやってるというかもはや妹ちゃんは私の生きがいだからさせてほしい」と言い、その言葉でうちの父は妹を甘やかさないでポジションからもういいじゃない好きなら好きなだけ甘やかしていいよおじいちゃーーん!ポジションに切り替えました。

今では妹は1週間のうち5日間はおじいちゃんのお家にいますし、なんなら妹の仕事の送り迎えもほぼおじいちゃん。私服は全部おじいちゃんチョイスです。しかも結構センスがいい。なんか妹の服を買うたびに若い女性向けの雑誌読んで勉強するらしい。すげえなおじいちゃん。

内心最近までは『おじいちゃんの息子さんたちに“親父の遺産食い潰しやがって!!”って恨まれたらどうしよう…』と思ってた。ですがおじいちゃんは妹に物を与えるだけではなく、変な男が寄ってきたら追っ払い、仕事がある父に代わって妹と一緒に就労施設に入って妹の働きぶりを見守り、時に社会人としてアドバイスし、父にはその様子を伝えて一緒に妹の今後を考えてくれるなど、妹が社会に出るにあたってかなりの貢献をしてくれている人なのです。

もう「孫よりかわいい」とか言ってる場合ではない。この献身はどこから来るんだろう。

 

っと思っていた矢先、おじいちゃんが脳出血で入院しました。

異変に気付いたのはうちの父。いつものように妹をおじいちゃんの家まで迎えに行ったとき、明らかに具合が悪そう。そして話を聞くと「意識がはっきりしないときがある」「めまいがする」「痙攣がする」

すぐに病院に連れていき、検査を受けたら脳出血でした。入院することになり、手続きは全て父がやりました。

幸いにも入院前後の意識はずっとはっきりしており、手術をせずに回復することができました。リハビリもすぐに入ることができ、看護師さんもびっくりの異例の回復スピードでした。

ですが、これで改めて直面した『おじいちゃん高齢化&近くに身寄りがいない問題』。

とりあえずこのときは本州に住むおじいちゃんの長男さんの奥さんに連絡をして、本人の治療をする意思がはっきりしていたこととそこまで緊急性がないと判断されたためかよくわかりませんが父が入院手続きをする際、病院からは何も言われなかったそうです。

 

しかし、おじいちゃんは比較的その後すぐに、今度は肺炎で入院することになりました。

またもや具合の悪そうなおじいちゃんを父が病院に連れて行き、今度はそれなりにヤバい状態だったらしく、すぐに入院&治療が必要です本当にこのままあと2日くらいほったらかしてたら死にますよと医者にマジ顔で言われる。

父は冷静に入院手続きが前のようにすんなりいくか心配したらしいです。

しかしこのときおじいちゃん、前回の入院のとき、妹に会えないのと病院食が不味かったのがよっぽど堪えたのか、入院したくないと駄々をこねる。

「1回家に帰ってから考えさせてほしい…」

いや今すぐ入院しないと死ぬよ!と言うお医者と父の傍らで、その言葉にショックを受けたのが妹。

お医者の『死ぬよ宣言』の後に続くおじいちゃんの「1回家に帰ってから考えさせてほしい…」という発言は、妹には「いつ死んでもいい」と感じたのかもしれません。

「おじいちゃん、お医者さんの言うこと聞かないと、だめでしょ!」

そう言って、めそめそすんすん泣きながら「入院してよお」という妹に、おじいちゃんもつられて号泣。でもこれ、血縁関係まっったくないんだぜ。不思議だよな。

父は、「すいません私たち血縁関係はなくて近所に住む者なんですけど、私が入院手続きしても大丈夫なんでしょうか?」と淡々と入院手続きを進めようとしてました。

ですがこの病院、脳出血のときの病院とは打って変わって「血縁関係の方でないと治療の許可もできないし入院手続きもできない」と冷静に言われてしまいます。今回の肺炎は緊急性があり、急いで血縁の方に連絡を取ってくださいと言われたため再び本州に住むおじいちゃんの長男さんの奥さんに連絡をして、おじいちゃんは無事入院し治療を受けることができました。

 

今は無事治療を終えて退院し、体力も大分回復したし、食欲もかなり元のペースに戻ってきました。

妹もおじいちゃんの健康を気遣い、おじいちゃんの家の草刈りや洗濯、掃除を率先して行い、「お酒はやめなさい!」と鬼孫ぶりを発揮しています。今までただ甘えてただけだと思ってたけど、ちゃんと長生きしてほしいんやな。

 

そして、もう2度も入院手続きをしてしまったからにはやはりおじいちゃんの息子さんときちんと会ってお話すべきでは…となり会ってきました!本州に住む長男さんと北海道に住んでるけど遠方な次男さん。

毎年大晦日からお正月にかけて、おじいちゃんが次男さんに頼んで蟹を調達してもらっていたのですが、そのときやっとお礼を言えました。直前お礼も言えず10年も蟹食っててすみません。

その場でやっと、おじいちゃんと我が家の交流、妹とおじいちゃんのことについてお話しました。

傍から見れば奇妙な関係かもしれない。普通じゃないかもしれない。

だけど妹がこの歳まで優しく、素直な子に育ったのは間違いなくおじいちゃん、そして亡くなったおばあちゃんの尽力のおかげです。

これからもおじいちゃんとの交流を続け、健康と生活をお互い見守れるようにしたいという父の願いは、あっさり受け入れてもらえました。

今は週2回、父と妹がおじいちゃんをお招きして食事会をやり、たまに父がおじいちゃんの家に行って家の様子を見ています。こないだは私も草刈りしました。

 

一家の中では一番遠巻きに見てますが、私もいつも妹を優しく見守り、傍にいてくれるおじいちゃんに感謝しています。

長生きしてな。

約12年ぶりに私から母親に連絡取った話

近況なんですけども、前回の記事からもう1年以上経ちまして、転勤しました。

そして引っ越しをしました。

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 新しい職場が偶然にも地元で、それまで住まいは社宅にしていたんですけども、引っ越しを機に脱☆社宅を図り、今は実家から徒歩30秒くらいのところにアパートを借りて住んでいます。何故実家から近いのかというとアパート探しが面倒くさくて、実家の近くに住んでいる親戚が大家さんをしているアパートにたまたま空きが出たのでそこにする!と即決したからです。そこが今の実家と同じ系列のアパートなので、間取りもほとんど実家と変わらない。おかげで家具チョイスはイメージがしやすく、捗りました。

 

父は鬱陶しいなと思うときもあれば考えが理解されず苦しむときもありますが、基本的には世間一般の父娘よりはるかに仲が良いので、近所に住んでいることに対してはそこまで苦には感じていません。

まあもうお互い自立(自律)した大人だしあまり干渉しすぎないように過ごしています。と言いたいところですが、そこそこの頻度で一緒にご飯が食べたいと電話が来たりします。3回に1回くらいはOKします。

 

さて、近況報告が終わったところでタイトルの話をしましょう。

 

私の母は、私が小学校6年生、小学校最後の遠足の前日に「もう耐えられない。私はここにいると壊れてしまう。出ていきます。p.s.子供たちのお弁当はお願いします。」と置手紙を残し突然出ていきました。

当時の私は母が突然、私と妹を残して出ていったことにもショックでしたが、それよりも『これでお弁当つくってくれてたら感動的だったのに…』と母へのガッカリ感の方が勝ってた。翌日料理上手な父が美味しい海苔だんだん弁当(白米→醤油おかか→とろけるチーズ→海苔を重ねてつくる)を作ってくれて、遠足自体はとても楽しく過ごすことができました。

それからおおよそ3週間ほど母は帰らず、私は近所に住む友人にだけこっそり相談をし『服とかタンスに全然残ってるし、着替えとかどうしてんだろう…』と心配していました。心配するとこ違うね、わかってる。

そしてある日、友人たちと当時片思いしていた男の子(後の夫である)のお家に遊びに行く約束をしていた日に事件は起こりました。

 

母、親戚一同連れて帰宅!!!!!(約1か月ぶり)

 

はい、もう友達と遊びに行きたいなんて言える空気ではありません。びっくりですよ帰宅したら家の前に車がどあ~~~と駐車されていて、一目でわかるただ事ではない感。私は一緒に行く約束をしていた友人に泣く泣く事情を話し、『いやもうそれはしょうがないよ!大丈夫また遊びには行けるから!頑張って!』と励ましてくれた友人を見送りました。

 

簡潔に母の人柄について話すと、母は元々ミュージシャンのおっかけを生きがいとしている人で、推しミュージシャンのライブに頻繁に行き、出待ちをしている人でした。結婚し私と妹を出産した後も、私たち姉妹を託児所に預けライブに行き、一緒にライブに行った父が「娘たちが待ってるからはやく戻ろう」と言っても「もう少し待って!!」と出待ちを諦めない女性でした。23時前に迎えに来たときは内心捨てられたのかなと思ったよ。

そして、小嘘をよくつきました。

実家は当時自営業をしており、母は会計事務の担当でしたがそこでも発揮される小嘘の数々。「請求書出した」「電話した」「これ言った」「これ書いた」「誰があれ言った」

社会人になった今ならわかりますが、社内での信頼と居場所をすぐに失くし、人に失望されることばかりする社会人の見本のような人でした。

ですが自営業だったので、失われる信頼は社長、つまり夫である父、取引先の企業のみで済みました。ですが取引先の企業との繋がりを疎かにする母の所業は、父にとっては恨みの元でした。故に私が物心ついた頃には夫婦仲は最悪だった。

 

そして、親戚一同をつれて帰ってきたとき、そこで発揮された大嘘。

『私は夫から虐待を受けている。娘二人を連れて帰るために夫を説得してほしい』

当時小学生の私ですら「は?」となる話でした。

いやいやいや、あなた父が朝起こしたら『うるせえ!』って逆ギレして父がかけてた眼鏡叩き割って失明寸前にしたよねとか、色々言いたい気持ちもあったのですがやはり「母が無事でよかった。もう一度会えて嬉しい」が勝ってしまいました。言えなかった。

そして父1人 vs 母&母の親戚総勢約20人 での話し合い。

私と妹はずっと二階の寝室にいました。

結局両親は私と妹の親権を裁判で争うことになり、母に対する暴力の有無もそこで決着つけようやということになりました。

私も妹も、母が私たちに対してそこまで愛情を持っていないというのを出ていった時点で思い知ったこと、ライブに行ったときの母の豹変ぶり、そして今回の大嘘。

もう母の近くにいる理由もないと、父のもとにいることを固く心に誓っていた私は母のある誘いに乗ることにしました。

 

それは『小学6年生の夏休みに、母の実家がある新潟に遊びに行く』ことでした。

 

母は新潟出身、父は北海道出身、両親は互いの就職先の神奈川県で知り合い結婚、父が家業を継ぐことをきっかけに北海道に移住しました。

それまで度々母の実家に遊びに行くことはありました。

北海道とは違う瓦屋根のお家、細い路地裏、白樺ではない生い茂る樹々、水田に写る夕日。水が美味しく、美しい自然に溢れた新潟の風景は今でも大好きです。

両親が離婚するという場面に直面したとき、私は「きっともう母の故郷である新潟に行くことはない。ならば最後の思い出に行くべきだ」と感じました。

実際、あの夏を新潟で過ごしたのは今でも忘れない思い出です。母との最期の思い出なんて一切関係なく、生まれ育った場所では体験できない美しい風景と自然を見つめることができた。今思えば「留学してホームステイする」感覚に近いものがありました。

ちなみに父は私と妹が夏休み中、母がいる新潟で過ごすと決めたのがショックでショックでたまらなかったらしく、冗談抜きで毎日泣いて「このまま帰ってこなかったらどうしよう...」と弱音を吐いていたらしい。ごめんよ。

 

その後は私が北海道に帰る飛行機に母と母方の祖父が同乗し、「家まで送ってくれるのかな?」と思っていたら私も一緒に裁判所へ連れていかれて、あまり話したことがない祖父と約6時間ほど待合室で母を待つという意味不明な時間を過ごしました。

その間、暇つぶしに母の携帯電話を見ていたら母が友人に「早く離婚したい」「上の子(私)はいいけど下の子(妹)は障がいあるからいらない」「慰謝料いくらもらえるかな?」というやりとりのメールを見つけてしまいめっちゃ真剣に読んでました。当時ガラケーでよかったね。

 

やっと家に戻り、私が戻ってきたことに安心した様子の父にメールの内容を全て話しました。父は静かに納得していました。

妹は母が好きだった。でも障がいがあるからいらないと言った。私は夏休みが終わる1週間前には北海道に戻りましたが妹は本当に夏休みが終わる直前に戻ってきました。妹が無事に帰ってきたことに安心しましたが、父は「そりゃ帰ってくるよ。あの人は本当は妹ではなく君を欲してたんだから」とこっそり伝えました。

こうして私と妹の新潟で過ごした夏は幕を閉じました。

 

その後、父は約2年にもわたって私たち姉妹の親権争い、そして慰謝料の有無の争いでたびたび弁護士さんと話し合い、裁判所へ出向く日々が続きました。離婚でここまで裁判沙汰が長引くのは本当に珍しいのではないだろうか。

 

成立に離婚が成立してからは、半年に1度のペースで母が新潟から北海道までやってきて、一緒にご飯を食べたり買い物をする機会が設けられていましたが、その頃からすでに母に会うのが苦痛になってきたのです。

 

「もう他人なのに」「あの人も私たちの成長には興味ないしなぁ」と思ってました。

 

そしてあるターニングポイントに差しかかります。妹の高校受験です。

 

妹は軽度の知的障がいと吃音があります。療育手帳も持っているけど、計算や読み書きはできるし、料理や洗濯もする。パソコンの操作も普通にできる。妹の進学の選択肢は2つ。私が通っていた『手帳は持ってないけどグレーゾーンの子が多い』高校に通うか、養護学校に通うか。妹が寝静まった後に父と2人で妹の高校卒業後の将来のことも考慮し、妹の希望に沿う形を模索していたときに、母からメール。

 

「妹の高校は決まりましたか?」

 

「今私が通う高校に行くか、養護学校に行くか悩んでる」

 

「あなたが通う学校なんて、普通の子ばかりじゃない。あの子がやっていけるとは思えない。ちゃんと養護学校で専門の先生の元へ行かせた方がいいんじゃない」

 

このメールで私の怒りが爆発します。

 

私、あなたに高校生活のことなんて全然話したことないのになんで「普通の子ばかりじゃない」って。

そもそも普通ってなに????

正直私が通う学校なんてみんなほとんど片親か親がいない子だし親がいてもろくでもない人だったりするお家が多いし、不登校だったりいじめられてたりいじめやってた奴もいるしタバコ吸ってるしピアスがんがん開けてるし情緒不安定だし障がいだってグレーゾーンの子もいっぱいいるけど、片親だからってバイトして給料を家計に入れてたり、進学したいからバイト代頑張って溜めてたり、年の離れた弟妹の面倒見てたり家の仕事手伝ってたり部活頑張ったりするし、将来のことで不安になったりして、みんな違うけどみんな「ふつーのこと」だと思ってるんだよ。普通の子なんてどこにもいないんだよ。

そしてあなたがいなくなった後の妹の成長具合なんてあなた気にしたことないでしょ!!???

妹はそりゃ勉強できないし物覚えは悪いし言葉はスムーズに出てはこないよ。でも本当は行きたくない部活を3年間休まず続けたこととか、外食するときにはいつも必ず「美味しいね~♡」と言い、帰るときには店員さんに「美味しかったで~す。ごちそうさまでした~」って言うところとか。知らない人にも優しくできるところとか、人見知りせずニコニコと笑顔を絶やさないところとか、お年寄りに好かれるところとか、いいところが沢山ある。

ズルをしない。人に優しくする。人を助けれそうなときは助けてあげる。でも偉ぶらない。お礼をきちんと言う。幸せなときは幸せって言っていい。それらは、父さんと私が地道に言い続けて妹の日常にしていったことなのに。

勉強の支援をするのは学校かもしれないけど、生活の支援をするのは一生、妹の家族である父と私なのに。

あなたは学校に行かせれば子供が育つと思ってるかもしれないけど、そんな訳ないから!!!!!!

あなたに言われなくても妹は自分でちゃんと考えれるし、この学校に行きたいなんていうのは本人の意思が第一でしょう!?そうやって妹の意思を尊重することができないから私たち2人ともあなたのところへは行かないってなったんだよ。なんでそれがわからないの???

今の私と妹のことなんにも知らないくせに、口を出すな!!

この際だから言うけどもう来るな!!!会いたくない!!!!!私からはもう連絡もしない!!!妹にも余計なこと言うな!!!!!

 

というのを電話でどわーーーーーーと喋りました。長いね。

母はびっくりしていて、ずっと謝っていたけど何も感じなかった。

自分で言うのもあれですが当時はとてもおおらかで、思ったことを内に溜め込む派の人間だったので、母は私が怒ったところなんて見たことありませんでした。

でもこのときは本当の本当に腹が立ったのです。

 

その後、妹は自分の意思で養護学校に行くことを決めました。今は父と暮らしながら保育園の助手として、園児と遊んだり、保育園の草むしりをしたり先生方のお手伝いをしています。お給料も多くはないけどきちんと貰えていて、社会人らしく毎月決まった額を父に渡しています。もちろん母はこのことを知りません。

私自身は高校を卒業後、大学に進学し、無事に就職し結婚もしましたが大学に進学したことも就職したことも結婚したことも一切言っていません。正直お金貸してとか言われる可能性を感じて言えない。母は金遣いも荒かった。

 

私からの一方的な『もう来るな宣言』の後は、母は言いつけを守るように北海道に来ることはなくなりました。今でも季節の果物や服などが送られてきますが、もう10年以上お礼のメールも荷物送ったよのメールもやりとりは一切なし。ですが届いた荷物の中には必ず直筆の手紙が入っており、母の近況と、「いつでも遊びにきてください」という言葉が添えられている。私はその手紙に応えたことは一度もないし、届いたよのメールもしない。

 

しかしそれも日常になった昨今で、先日の地震でした。

新潟で震度6強、津波注意報の通知が来たと同時に夫から「新潟で大きな地震があったみたい」と連絡がきました。

私は中越地震のときを思い出しました。当時まだ両親が、親権や慰謝料を巡って裁判で争いをしている時期で、『もう来るな宣言』のだいぶ前でしたが、父から「今すぐ母さんにメールして無事か聞け」と言われ、メールを送っていたのです。

 

そして、津波と聞いて思い出したのは東日本の震災でした。

 

私は迷いに迷った結果、母にショートメールを送りました。

約12年ぶりの連絡は、地震による安否確認でした。

 

メールを送ったときは、仕事帰りで山岡家でとんこつ醤油ラーメンとライスと餃子をキメている最中でしたが、久しぶりに連絡を取ることに緊張したのか一気に食欲が落ちました。完食しました。

 

メール送信から2日経ちましたが、未だに返信はありません。

 

ですが、内心ほっとしている自分がいます。

ひどい奴だと罵られてもいい。

きっと死んではいないと思う。

そろそろ妹の誕生日なので、いつも通り妹の誕生日に合わせて荷物が届くのであろう。そのとき、いつも通り母の近況が書かれた、一方的な手紙が入っているであろう。

 

そうだといい。

 

勤務中に失神した話

これから書く記事はタイトルを見ればわかる通り、勤務中に失神した話です。

皆さん失神したことありますか?

私は学生の頃、クソ暑い日にクラスメイトが脱水症状で失神して倒れて大層ビビった経験がありますが、自分も失神します。しかも割としてる。

頻繁ではないけれど、たまたま条件が重なったときになる失神です。

調べたところどうやらその失神は血管迷走神経反射性失神という名前らしいです。居酒屋でベロンベロンに酔っ払ったおねーちゃんがトイレで気を失ってるところに遭遇したことありませんか?それもこの失神です。

そして恥ずかしながら自分は今まで『条件が重なったら失神することがある』ということを知っていただけで、紆余曲折ありまして「えっ、私倒れてるときそんなだったの!?」というのをやっと今日知るに至った訳です。いい歳した大人が。おったまげー。

失神したことがある皆さん、失神したことない皆さん、失神に興味がある皆さん、まず読んで。あわよくば感想ください。

 

さて皆さん、学校や職場、またはお家で、親や先生、上司に怒られて失神する人、居ませんか?

それ、私。

自分が初めて失神を経験したのは小学2年生のとき。クラスに説教癖のある男の子K君がおりました。K君は毎回座りながら椅子を斜め後ろに傾けて通路を塞いでいた私に苛立っていたのか私のことが好きだったのか謎ですがしょっちゅう私に説教をかまして常に私を下に追いやるマウント男子でした。今なら殴れる。

休み時間のたびに唐突に近づくK君の気配…と思ったらはいキタ説教だよ説教キターーー!!!うるせーその口ぶんなぐっぞ!!!!

と今の私なら思いますが当時ゴリラに生まれ変わる前だったので普通に嫌だったし普通に怖かった。

(いや今でも怖いし嫌だわ理由なき説教。)(K君当時の私のどこにそんな君を怒らせる要素があったんだい?)

ここまで書いておいてなんですがK君が当時具体的にどんなことを言ったのかは全く記憶にありません。でもとにかく女房を奴隷扱いしておきながら離婚する気はないモラハラ夫よろしくばりの「お前はトロい」「だからお前はダメなんだ」みたいなニュアンスの言葉を言われたのは覚えています。そして当時まだピュアな自分はその言葉を間に受けちゃったんですね。いや~本当ピュアだわ今なら殴るぞ。

 話が逸れました。

ここで失神に至るまでのキーワードは『言われたことを真剣に受け止めすぎる』というのがまず1点。

まず最初は普通に話を聞く姿勢を取っています。ですが言われていることに対して「私がこうしなかったから悪いんだ」と考えるようになり、圧迫感(プレッシャー)を一方的に感じ始めます。そうすると、段々血の気が引いていくのがわかります。その後すぐに血圧が下がるせいなのかキィーーーーーンと音叉の高い音がずっと耳元で鳴ってる感じになる。自分が返事している声が遠くから聞こえる。頷く力もうまく入らない。というか頷けれてるのか返事出来てるのかもよくわからない。頭の中が砂嵐がかかったようにざあざあになる。脂汗が出てるせいなのか顔が冷たい。身体の感覚がない。目が霞んで相手の顔がよくわからない。顔が上がらない。視界が悪くなって気付かないうちにバッターーーンとなります。

そしてこの失神の良いところは早ければ30秒もしないで目を覚まし、失神後の体調が比較的良いところ。(あくまで個人の見解です。)

自分調べで申し訳ありませんが今まで遅くても1~2分程で自然に目が覚めてる。

しかも失神した後も普通に立てるっちゃ立てる。動ける。歩ける。なんなら走れる。むしろ失神中が休憩時間。(危ないやつの発想なので決して真似しないでください。)

冒頭に書いた血管迷走神経反射性失神、これは簡単に言うと長時間立ったままや座ったままの同じ姿勢で仕事をしたり、強い痛みを受けたり、精神的恐怖、ストレス、怒りを体験することが誘因となって起こる失神です。

 

「え~、親や上司に怒られることが精神的恐怖なの~?本当に~?」と思う人。

 

人の性格がそれぞれ違うように何に恐怖を抱くかは人によって違うんだよとやかく言うなほっといてくれ口出ししないでくれ頼みたくもないけど頼むぞ。

 

これまたポイントは『立ったまま×精神的なストレス、または恐怖』。

そして私にとって「精神的なストレス、または恐怖」というのは父親が9割を占めていると言っても過言ではない。

どんくさく、自分勝手な私は父を怒らせる天才である。特に私が十代の頃はヤバかった。どこで父の逆燐に触れるかわからないから高校では本気で寮に入りたかった。(しかし私が高校に入学した年に閉寮が決まってしまった。ジーザス!!!)二十代になってからはたまに言い返してもお怒りの時間が長引くだけだと経験則でわかってしまったのでもう何も言い返さないことを心に決めた。

(ちなみに父の怒り時間は私の「仕事辞めたい」というネタで最長31時間である。この人私が仕事が原因で自殺してもなんも思わないのかなと考えてしまった。)

正直父の怒りに付き合っても時間の無駄という他ないのだけれども、ここで逃げたらこの人本気で追っ掛けて殺しに来るなと思わせんばかりの形相である。気弱な人にありがちな「逃げるのもこわい」という状態。クレイジーだな。

 

しかし本当の問題はここ、『父は私の失神を演技だと思っている』ことだ。

演技というと誤解があるかもしれない。失神を「現実逃避の道具」として扱っている。

現に私は父のお怒りタイムで毎回失神する。失神しない日はないんじゃないかと思うくらい失神する。しかもお怒りタイムは予測できないところでゴングが鳴ったりするので最初は必ず立った状態からスタートなのだ!正直しんどい。

両親が離婚して父子家庭になったのが小学6年生、父のお怒りタイムで失神し始めたのがその頃だとすると、父はもう10年以上私の失神を見ていることになる。毎年必ず失神するわけではないけど失神した回数なんて両の手で数えても足りないくらいだ。

 

だけど父は私の失神を認めない。

それは父は『精神的な恐怖で失神したことがないから』に尽きる。

 

私も断片的な父の歴史しか知らないが、少なくとも空手をはじめとする多くの格闘技及び護身術の有段者である父は、これまで身体の痛みで失神したことはあっても心の痛みで失神はしたことはないだろう。

 

以前父が言っていたことがある。

「俺は食べ物の好き嫌いがない。だから食べ物の好き嫌いをする人間の気持ちがわからない」

これが全てだと思ってしまった。

 

私が言いたいのは、とにかく失神ひとつ取っても理解されないのは悲しいし、しんどいということだ。

父を怒らせたのは私だから、私が悪いから、私が失神しても父は何もしない。寄り添ったりもしない。「気ぃ失ってんじゃねえ!!」と怒鳴りはしても優しく声なんてかけない。短い時間で私の目が覚めるのを待って、私が涙を垂れ流しながら立てない様子を見て、やっと椅子に座らせる。そのときずっと、「早く死にたい」と漠然と思う。

 

父に言えばいいのだ。『父さん、私が倒れるのって血管迷走神経反射性失神っていうんだって。倒れるのは自分じゃコントロールできないから、せめて話をするときは最初から座りたいの』って。言えればいい。

でも私と父の間にはその言葉を言う信頼関係すらないのだ。

理由はもっと単純で『私が日常生活で失神することがないから』だ。もしも私が日常生活でしょっちゅう失神するようだったら、父はもっと私を大切に扱ったかもしれないし、その過保護っぷりにまた別のストレスを感じていたかもしれない。

しかし『お怒りタイムしか失神しない』となればそりゃ父が私の失神を認めないのも無理があるとは言い切れない。私は父の性格を鑑みて、自分の失神を認めてもらおうとは思わない。

父にはずっとこのまま自分が体験したことないことを理解せず死んでいって欲しい。

 

さあ話をタイトルに戻して、勤務中に失神した話をします。

シンプルな話、上司に説教されている最中に失神しました。

社会人になって早うん年。実は働いている間に失神するのは初めてでした。しかも普段は妙に頑丈な自分が話の途中で突然ぶっ倒れたことで上司を滅茶苦茶驚かせてしまいました。

説教されている内容をざっくり書くと、「お前が抱えているプロジェクト、全てがずさん過ぎる。出来てねーじゃん。このまま担当やれんのか?著しく不安を感じる」というものでした。当たり前ですが自業自得です。

今まで仕事で失敗して上司や偉い人に怒られることはあっても、殆んどの場合座った状態でお話されることの方が圧倒的に多かった。

でもこのとき、立ったまんまでした。

やっぱり立ちっぱなしは駄目なのね。

おそらく失神後目が覚めるまで10秒くらいだったので軽めだな(?)と思いましたが、もう3年ほど一緒に仕事してる上司に今まで見せたことない一面を見せてしまったためマッハで医務室に搬送されました。

どうでもいいんですが医務室の人ってなんであんなにやさしいんだろう。

医務室のベッドで横になってから、無意識に目から鼻水が垂れ出ていました。

なんでかって『失神しただけで医務室で横になれてるから』だよ!!!

いや怒られた自分にもショック受けてるんですけど、

なんで失神しただけで上司も医務室のおばちゃんもめっちゃ優しくしてくれるの!!???

ここユートピアなの!!!??(※職場です。)

 

このとき医務室のおばちゃんに血管迷走神経反射性失神かもしれないという話をポロっとしました。昔からよくなるとだけ言えたけど、本当に目から鼻水が止まらなくてそれ以上は喋れなかった。自分の中でそれほど「失神したら休ませてくれる」ことは大きな出来事だった。

目から鼻水垂れすぎて目蓋も鼻も薄皮ベロベロに剥けた。

 

幸せなことに途中で同じ部署のおねえさんが見舞いに来てくれたので、水を飲ませていただいてそのまま戻りました。最終的に40分くらい横になってた。幸せすぎる。

 

その後は私が失神した空間に居合わせた不運な同僚に謝りつつ、座りながらの作業をしていたら上司「ちょっと時間ある?」

上司への返事は「イエス」か「はい」しか持たない社畜の自分。説教の続きかなとビビっていたら近くの椅子に座らせ、パソコンの画面を見せて「お前血管迷走神経反射性失神なの?脳神経外科のホームページでした。

「そうかもってだけで、病院行って検査はしたことないです」

「そうか…。いや俺も今調べたけど、これ立ちっぱなしと精神的ショック、ストレスが誘因となって自律神経のバランスがくずれって書いてあるから多分これが当てはまったんだろ」

 

調べてくれてるんかーーーーーーーーーーーーい!!!!!!!!!

 

「お前倒れる瞬間俺が手引っ張ったの記憶あるか?」

「!!??全くないです!」

「ないのか!?頭ぶつけるかもしれないから引っ張ったんだぞ」

「なんか気付いたら倒れてました。上司さんが「お前もか!?」って言ったところから記憶はあります。んで少しして『Mさんか!』と思って目が覚めました」

※先週同じプロジェクトのMさんも高熱出して痙攣発作起こしてぶっ倒れたばかりだった。

「そうだよMのことだよ。お前倒れてる間も痙攣してたからな」

「え!!??私痙攣してたんですか!!?」

 

衝撃の事実である。実は私は『条件が重なったら失神することがある』ではなく『条件が重なったら痙攣しながら失神することがある』だったのだ。

大したことないかもしれないけど私にとっては大ニュースである。そっかーもっと静かに失神してるのかと思ったら全然身体動いてたのね。

 

「まあなぁ…。話聞いてヤバいと思ったんだろ。ヤバいと伝わったんならそれで良いよ」

「はい」

「精神的ショックとかストレスとか、まあ言われないのが一番だけど言われない訳にもいかんだろ」

「はい」

「俺もお前がそうだってちゃんと知ったらこれからは話するとき座らせるから、お前も人に話をするときはきちんと座ること。ちゃんと自分で予防してコントロールしろよ」

「はい」

「病院行ったらいくらでも検査してくれるんだから、これからストレスも頻繁にかかるからしょっちゅうなるようならすぐ病院行って検査しに行け」

「はい」

 

もう最後らへん目から鼻水垂れないように耐えるのが精一杯だった。

 

正直、上司が医務室の話を聞いてくれてちゃんと調べてくれて、きちんと自分に言ってくれるというのが想像以上だったため、その後トイレに大急ぎで駆け込み、

 

泣きすぎた。

 

失神してぶっ倒れて休ませてくれるだけでなく、調べて言ってくれる。全部父親にやって欲しかったことだった。

でもなんか巡りに巡って職場でその経験が出来たから、生きてれば自分に優しい世界ってちょこっとあるんだなと感じました。

トイレットペーパーで目蓋抑えてるもんだからもう薄皮ベロベロどころではない。完璧皮むけて赤くなってるし暫く保湿との戦いである。化粧水沁みるやつやん。

まじかよ二十代になるとこんな皮剥けるもんなの…?

 

もう今日の勤務時間の後半は殆んど泣く時間に費やしたけど周囲の人がみんな心配してくれて、もう社畜でもいいから仕事頑張ろうと思った。

 

退勤後に「明日無理そうだったら言えよー!」と遠くから声をかけてくれた上司、医務室にお見舞いに来てくれたおねえさん、こっそり様子を見に来てくれた後輩、医務室のおばちゃん、ありがとうございました。

 

皆さん自分の失神に不安がある方はすみやかに循環器内科か脳神経外科へ☆

 

 

(次回、失神のことで病院に行ってみた に続く)(続かない)