約12年ぶりに私から母親に連絡取った話

近況なんですけども、前回の記事からもう1年以上経ちまして、転勤しました。

そして引っ越しをしました。

sasa7923.hatenablog.com

 新しい職場が偶然にも地元で、それまで住まいは社宅にしていたんですけども、引っ越しを機に脱☆社宅を図り、今は実家から徒歩30秒くらいのところにアパートを借りて住んでいます。何故実家から近いのかというとアパート探しが面倒くさくて、実家の近くに住んでいる親戚が大家さんをしているアパートにたまたま空きが出たのでそこにする!と即決したからです。そこが今の実家と同じ系列のアパートなので、間取りもほとんど実家と変わらない。おかげで家具チョイスはイメージがしやすく、捗りました。

 

父は鬱陶しいなと思うときもあれば考えが理解されず苦しむときもありますが、基本的には世間一般の父娘よりはるかに仲が良いので、近所に住んでいることに対してはそこまで苦には感じていません。

まあもうお互い自立(自律)した大人だしあまり干渉しすぎないように過ごしています。と言いたいところですが、そこそこの頻度で一緒にご飯が食べたいと電話が来たりします。3回に1回くらいはOKします。

 

さて、近況報告が終わったところでタイトルの話をしましょう。

 

私の母は、私が小学校6年生、小学校最後の遠足の前日に「もう耐えられない。私はここにいると壊れてしまう。出ていきます。p.s.子供たちのお弁当はお願いします。」と置手紙を残し突然出ていきました。

当時の私は母が突然、私と妹を残して出ていったことにもショックでしたが、それよりも『これでお弁当つくってくれてたら感動的だったのに…』と母へのガッカリ感の方が勝ってた。翌日料理上手な父が美味しい海苔だんだん弁当(白米→醤油おかか→とろけるチーズ→海苔を重ねてつくる)を作ってくれて、遠足自体はとても楽しく過ごすことができました。

それからおおよそ3週間ほど母は帰らず、私は近所に住む友人にだけこっそり相談をし『服とかタンスに全然残ってるし、着替えとかどうしてんだろう…』と心配していました。心配するとこ違うね、わかってる。

そしてある日、友人たちと当時片思いしていた男の子(後の夫である)のお家に遊びに行く約束をしていた日に事件は起こりました。

 

母、親戚一同連れて帰宅!!!!!(約1か月ぶり)

 

はい、もう友達と遊びに行きたいなんて言える空気ではありません。びっくりですよ帰宅したら家の前に車がどあ~~~と駐車されていて、一目でわかるただ事ではない感。私は一緒に行く約束をしていた友人に泣く泣く事情を話し、『いやもうそれはしょうがないよ!大丈夫また遊びには行けるから!頑張って!』と励ましてくれた友人を見送りました。

 

簡潔に母の人柄について話すと、母は元々ミュージシャンのおっかけを生きがいとしている人で、推しミュージシャンのライブに頻繁に行き、出待ちをしている人でした。結婚し私と妹を出産した後も、私たち姉妹を託児所に預けライブに行き、一緒にライブに行った父が「娘たちが待ってるからはやく戻ろう」と言っても「もう少し待って!!」と出待ちを諦めない女性でした。23時前に迎えに来たときは内心捨てられたのかなと思ったよ。

そして、小嘘をよくつきました。

実家は当時自営業をしており、母は会計事務の担当でしたがそこでも発揮される小嘘の数々。「請求書出した」「電話した」「これ言った」「これ書いた」「誰があれ言った」

社会人になった今ならわかりますが、社内での信頼と居場所をすぐに失くし、人に失望されることばかりする社会人の見本のような人でした。

ですが自営業だったので、失われる信頼は社長、つまり夫である父、取引先の企業のみで済みました。ですが取引先の企業との繋がりを疎かにする母の所業は、父にとっては恨みの元でした。故に私が物心ついた頃には夫婦仲は最悪だった。

 

そして、親戚一同をつれて帰ってきたとき、そこで発揮された大嘘。

『私は夫から虐待を受けている。娘二人を連れて帰るために夫を説得してほしい』

当時小学生の私ですら「は?」となる話でした。

いやいやいや、あなた父が朝起こしたら『うるせえ!』って逆ギレして父がかけてた眼鏡叩き割って失明寸前にしたよねとか、色々言いたい気持ちもあったのですがやはり「母が無事でよかった。もう一度会えて嬉しい」が勝ってしまいました。言えなかった。

そして父1人 vs 母&母の親戚総勢約20人 での話し合い。

私と妹はずっと二階の寝室にいました。

結局両親は私と妹の親権を裁判で争うことになり、母に対する暴力の有無もそこで決着つけようやということになりました。

私も妹も、母が私たちに対してそこまで愛情を持っていないというのを出ていった時点で思い知ったこと、ライブに行ったときの母の豹変ぶり、そして今回の大嘘。

もう母の近くにいる理由もないと、父のもとにいることを固く心に誓っていた私は母のある誘いに乗ることにしました。

 

それは『小学6年生の夏休みに、母の実家がある新潟に遊びに行く』ことでした。

 

母は新潟出身、父は北海道出身、両親は互いの就職先の神奈川県で知り合い結婚、父が家業を継ぐことをきっかけに北海道に移住しました。

それまで度々母の実家に遊びに行くことはありました。

北海道とは違う瓦屋根のお家、細い路地裏、白樺ではない生い茂る樹々、水田に写る夕日。水が美味しく、美しい自然に溢れた新潟の風景は今でも大好きです。

両親が離婚するという場面に直面したとき、私は「きっともう母の故郷である新潟に行くことはない。ならば最後の思い出に行くべきだ」と感じました。

実際、あの夏を新潟で過ごしたのは今でも忘れない思い出です。母との最期の思い出なんて一切関係なく、生まれ育った場所では体験できない美しい風景と自然を見つめることができた。今思えば「留学してホームステイする」感覚に近いものがありました。

ちなみに父は私と妹が夏休み中、母がいる新潟で過ごすと決めたのがショックでショックでたまらなかったらしく、冗談抜きで毎日泣いて「このまま帰ってこなかったらどうしよう...」と弱音を吐いていたらしい。ごめんよ。

 

その後は私が北海道に帰る飛行機に母と母方の祖父が同乗し、「家まで送ってくれるのかな?」と思っていたら私も一緒に裁判所へ連れていかれて、あまり話したことがない祖父と約6時間ほど待合室で母を待つという意味不明な時間を過ごしました。

その間、暇つぶしに母の携帯電話を見ていたら母が友人に「早く離婚したい」「上の子(私)はいいけど下の子(妹)は障がいあるからいらない」「慰謝料いくらもらえるかな?」というやりとりのメールを見つけてしまいめっちゃ真剣に読んでました。当時ガラケーでよかったね。

 

やっと家に戻り、私が戻ってきたことに安心した様子の父にメールの内容を全て話しました。父は静かに納得していました。

妹は母が好きだった。でも障がいがあるからいらないと言った。私は夏休みが終わる1週間前には北海道に戻りましたが妹は本当に夏休みが終わる直前に戻ってきました。妹が無事に帰ってきたことに安心しましたが、父は「そりゃ帰ってくるよ。あの人は本当は妹ではなく君を欲してたんだから」とこっそり伝えました。

こうして私と妹の新潟で過ごした夏は幕を閉じました。

 

その後、父は約2年にもわたって私たち姉妹の親権争い、そして慰謝料の有無の争いでたびたび弁護士さんと話し合い、裁判所へ出向く日々が続きました。離婚でここまで裁判沙汰が長引くのは本当に珍しいのではないだろうか。

 

成立に離婚が成立してからは、半年に1度のペースで母が新潟から北海道までやってきて、一緒にご飯を食べたり買い物をする機会が設けられていましたが、その頃からすでに母に会うのが苦痛になってきたのです。

 

「もう他人なのに」「あの人も私たちの成長には興味ないしなぁ」と思ってました。

 

そしてあるターニングポイントに差しかかります。妹の高校受験です。

 

妹は軽度の知的障がいと吃音があります。療育手帳も持っているけど、計算や読み書きはできるし、料理や洗濯もする。パソコンの操作も普通にできる。妹の進学の選択肢は2つ。私が通っていた『手帳は持ってないけどグレーゾーンの子が多い』高校に通うか、養護学校に通うか。妹が寝静まった後に父と2人で妹の高校卒業後の将来のことも考慮し、妹の希望に沿う形を模索していたときに、母からメール。

 

「妹の高校は決まりましたか?」

 

「今私が通う高校に行くか、養護学校に行くか悩んでる」

 

「あなたが通う学校なんて、普通の子ばかりじゃない。あの子がやっていけるとは思えない。ちゃんと養護学校で専門の先生の元へ行かせた方がいいんじゃない」

 

このメールで私の怒りが爆発します。

 

私、あなたに高校生活のことなんて全然話したことないのになんで「普通の子ばかりじゃない」って。

そもそも普通ってなに????

正直私が通う学校なんてみんなほとんど片親か親がいない子だし親がいてもろくでもない人だったりするお家が多いし、不登校だったりいじめられてたりいじめやってた奴もいるしタバコ吸ってるしピアスがんがん開けてるし情緒不安定だし障がいだってグレーゾーンの子もいっぱいいるけど、片親だからってバイトして給料を家計に入れてたり、進学したいからバイト代頑張って溜めてたり、年の離れた弟妹の面倒見てたり家の仕事手伝ってたり部活頑張ったりするし、将来のことで不安になったりして、みんな違うけどみんな「ふつーのこと」だと思ってるんだよ。普通の子なんてどこにもいないんだよ。

そしてあなたがいなくなった後の妹の成長具合なんてあなた気にしたことないでしょ!!???

妹はそりゃ勉強できないし物覚えは悪いし言葉はスムーズに出てはこないよ。でも本当は行きたくない部活を3年間休まず続けたこととか、外食するときにはいつも必ず「美味しいね~♡」と言い、帰るときには店員さんに「美味しかったで~す。ごちそうさまでした~」って言うところとか。知らない人にも優しくできるところとか、人見知りせずニコニコと笑顔を絶やさないところとか、お年寄りに好かれるところとか、いいところが沢山ある。

ズルをしない。人に優しくする。人を助けれそうなときは助けてあげる。でも偉ぶらない。お礼をきちんと言う。幸せなときは幸せって言っていい。それらは、父さんと私が地道に言い続けて妹の日常にしていったことなのに。

勉強の支援をするのは学校かもしれないけど、生活の支援をするのは一生、妹の家族である父と私なのに。

あなたは学校に行かせれば子供が育つと思ってるかもしれないけど、そんな訳ないから!!!!!!

あなたに言われなくても妹は自分でちゃんと考えれるし、この学校に行きたいなんていうのは本人の意思が第一でしょう!?そうやって妹の意思を尊重することができないから私たち2人ともあなたのところへは行かないってなったんだよ。なんでそれがわからないの???

今の私と妹のことなんにも知らないくせに、口を出すな!!

この際だから言うけどもう来るな!!!会いたくない!!!!!私からはもう連絡もしない!!!妹にも余計なこと言うな!!!!!

 

というのを電話でどわーーーーーーと喋りました。長いね。

母はびっくりしていて、ずっと謝っていたけど何も感じなかった。

自分で言うのもあれですが当時はとてもおおらかで、思ったことを内に溜め込む派の人間だったので、母は私が怒ったところなんて見たことありませんでした。

でもこのときは本当の本当に腹が立ったのです。

 

その後、妹は自分の意思で養護学校に行くことを決めました。今は父と暮らしながら保育園の助手として、園児と遊んだり、保育園の草むしりをしたり先生方のお手伝いをしています。お給料も多くはないけどきちんと貰えていて、社会人らしく毎月決まった額を父に渡しています。もちろん母はこのことを知りません。

私自身は高校を卒業後、大学に進学し、無事に就職し結婚もしましたが大学に進学したことも就職したことも結婚したことも一切言っていません。正直お金貸してとか言われる可能性を感じて言えない。母は金遣いも荒かった。

 

私からの一方的な『もう来るな宣言』の後は、母は言いつけを守るように北海道に来ることはなくなりました。今でも季節の果物や服などが送られてきますが、もう10年以上お礼のメールも荷物送ったよのメールもやりとりは一切なし。ですが届いた荷物の中には必ず直筆の手紙が入っており、母の近況と、「いつでも遊びにきてください」という言葉が添えられている。私はその手紙に応えたことは一度もないし、届いたよのメールもしない。

 

しかしそれも日常になった昨今で、先日の地震でした。

新潟で震度6強、津波注意報の通知が来たと同時に夫から「新潟で大きな地震があったみたい」と連絡がきました。

私は中越地震のときを思い出しました。当時まだ両親が、親権や慰謝料を巡って裁判で争いをしている時期で、『もう来るな宣言』のだいぶ前でしたが、父から「今すぐ母さんにメールして無事か聞け」と言われ、メールを送っていたのです。

 

そして、津波と聞いて思い出したのは東日本の震災でした。

 

私は迷いに迷った結果、母にショートメールを送りました。

約12年ぶりの連絡は、地震による安否確認でした。

 

メールを送ったときは、仕事帰りで山岡家でとんこつ醤油ラーメンとライスと餃子をキメている最中でしたが、久しぶりに連絡を取ることに緊張したのか一気に食欲が落ちました。完食しました。

 

メール送信から2日経ちましたが、未だに返信はありません。

 

ですが、内心ほっとしている自分がいます。

ひどい奴だと罵られてもいい。

きっと死んではいないと思う。

そろそろ妹の誕生日なので、いつも通り妹の誕生日に合わせて荷物が届くのであろう。そのとき、いつも通り母の近況が書かれた、一方的な手紙が入っているであろう。

 

そうだといい。